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10年前、僕は新聞奨学生でした

 僕は高校卒業後に上京し、音楽の専門学校に通っていました。

 僕の実家は母子家庭で、大学や専門学校に行くための学費を出せるほど裕福ではなかったので、どうにかして自分で学費を捻出しなければいけませんでした。

 

 学費が無い場合、奨学金を借りるのが最も一般的な方法だと思いますが、長期間かけてお金を返済するというシステムが、なんだか気に食わなかったので進学なんかせずに東京でアルバイトをしながらバンドをやろうと思っていました。


 しかし、周りの大人たちから猛反対され、そのくせ、進学して学費は自分で出せと言うまったくもって筋の通らないことを言われました。どうにも納得できない話でしたが僕は進学することを決め、どうせ自分でお金を払うのなら、自分の一番好きなものを学ぼうと思い、音楽の専門学校に行くことにしました。

 

 学費は新聞奨学生という制度を使って賄うことにしました。

 

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10年前、僕は新聞奨学生でした

新聞奨学生とは

 新聞奨学生とは、新聞配達をすることで新聞社が学費を全額出してくれて、更には給料まで貰える、という夢のような制度。しかしウマい話には裏がある。そしてそういう話に乗ってしまう人は、一定数いる。例えば僕のように。

 

新聞奨学生(しんぶんしょうがくせい)とは、新聞社の奨学金制度を利用する学生学費の一部もしくは全額を新聞社が肩代わりする代わりに、在学中新聞配達業務を行う。業務を行う場所は、学生側が選択することは不可能で、新聞社側が学生の通学時間を考慮し、人材募集中の販売店の中から選択する。多くは、都市部の新聞販売店に斡旋される。自立した生活ができ、経済的問題を解決できる利点の反面、労働環境は決して良好とは言えない場合もあり、時に奴隷と呼ばれるほどの重労働が課されるケースが発覚することもあるなど、問題点もある。

引用元:新聞奨学生 - Wikipedia

 

 参考リンク:

読売育英奨学会

朝日奨学会[首都圏版]|進学と自立を応援する、朝日奨学制度

日経育英奨学制度 東京地区 ~頑張る君を支えたい~

 

読売新聞で働く

 僕は横浜の読売新聞を配達することになりました。母の知り合いに横浜の読売新聞で働いている人がいて、その人の口利きで他の奨学生より条件の良い販売所に配属されました。これはラッキーでした。

 

 僕はほぼ毎日、夜中の2時に起き出して、新聞を配りました。朝の6時か7時くらいに仕事を終えて、9時から始まる授業に出るために東京へと向かう電車に乗る日々でした。授業は眠くてとても辛いものでしたが、自分でお金を払っているので当時の僕なりに一生懸命やっていました。幸いなことに(紹介のおかげで)僕は夕刊を配らなくてもいいことになっていたので、楽器を練習する時間はそれなりにありました。

 

 遊びに行く時間はあまりありませんでした。次の日の朝刊があるので、どうしたって9時か10時には寝なければいけません。友達からの誘いがあっても断って家に帰りました。上京したての19歳の僕にはそれはとても辛いことでした。

 

 親の金で学校に通っている人たちが羨ましかった。音楽学校に通っている人たちは、どうやら金持ちが多いらしいのです。当時の僕には、そういう人たちは、半分道楽のようなつもりで学校に通っているように見えました。

 

お金の話

 奨学生としての給料はあまりよくありませんでした。朝刊しかやっていなかったので当たり前といえば当たり前ですが、ひと月7万円とかそのくらいの金額から、光熱費としていくらか引かれて、実際に貰えるのは4万円から5万円ほどでした。住む場所や交通費は新聞社が出してくれたのでそれでも生活はできました。100円で売っているレトルトカレーやレトルトハンバーグばかり食べていた記憶があります。

 

 1年間働くことで約200万円の学費が返済不要になるのだから、給料が少ないのも仕方がないことだと思いました。新聞奨学生は年度の初めに奨学金を借り入れ、1年間働くことで年度末にその借入金を相殺するというシステムになっています。途中でやめると全額返済を強いられるので、現代の奴隷制度とも揶揄されていますが、何の能力も経験もない子供に大金を貸すのですから、そこまで悪徳な商売でもないような気がします。

 

 僕が運よく善良な販売店にあたっただけかもしれませんが。

 

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仕事の話

 仕事は大変でした。毎日200部から250部ほど配りました。普通の住宅地であればいいのですが、僕の担当する地区は団地でした。僕はハーモニカ型と呼んでいたのですが、4階建てで、1棟に入り口が4つか5つあるタイプの団地でした。「耳をすませば」の主人公が住んでいるような建物です。新聞1枚を配るために4階まで階段で登らなければいけません。そういうハーモニカ型の建物が30棟くらいありました。毎日走って階段を上っていました。

 

 僕の仕事の出来はあまりよくありませんでした。しょっちゅう不配といって、配り忘れをして、販売所の先輩に怒られていました。遅刻もよくしました。とにかくその当時の僕は眠くて眠くて仕方がなかったのです。

 

 それでも学校にはしっかり行くようにしていました。成績も悪くなかったと思います。

 

 仕事の休みは月に4日だけでした。その4日の休みを月々1日ずつ削って、正月に帰省するためにとっておいたので、実質休みは月3日でした。夕刊や集金をやっていたら体が持たなかっただろうなと思います。

 

辞めることにした理由

 僕の通っていた学校は2年制の専門学校だったのですが、僕は進級せずに学校を辞めることにしました。

 

 新聞配達をしながら、学校にも通って、更に、本来やりたいと思っていたバンド活動をするのは不可能でした。時間的にも金銭的にも。学費も2年目のほうが高く、新聞の奨学金だけで賄える金額ではありませんでした。それから、学校を出たところでまともな仕事のある業界ではないので、特に辞めることに関して躊躇はありませんでした。

 

 嘘です。

 本当はもう1年学校に行きたいと思ったけれど、当時の僕にはそれは不可能だと思いました。お金のことを気にせずに大学や専門学校に通って、好きなことを学べる人たちが、心底羨ましかった。もしも毎月仕送りしてくれる親がいたら、実家が東京だったら…… そんなことを考えてもどうにもなりませんが、当時の僕はそんなことばかり考えていました。普通の学生生活ができたらどれほど幸せだろうかと。

 

 それでも、学校を辞めた時に、転居の費用を出してくれた母親には感謝しています。

 せっかく紹介してもらったのに、僕は1年でやめちゃったんだから。

 

 まとめ

 タコ部屋労働、蟹工船、現代の奴隷制度などなど、色々な表現で新聞奨学生制度は批判されていて、そしてそれは事実にかなり近いものだと思います。

 しかし、貧しい若者に学校に通うチャンスを与えているのもまた事実です。長い時間をかけて返済する必要がないというのは最大のメリットだと思います。

 

 僕は18、19の子供が新聞配達に時間を割くのは本当にもったいないと思うし、あまりオススメできる制度ではないけれど、それでもどうしてもやりたいとか、どうにかして現状を抜け出したいという人はやってみたらいいと思います。

 

 僕は新聞奨学生をしていた19歳の頃が人生で一番つらい時期でした。それでも他の新聞奨学生よりは恵まれた環境だったようです。

 

 もしも若い新聞配達員を見かけたら缶ジュースの1本でも買ってあげてください。

 

 ではまた。

 

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